第1話「鉄道開通まで」

もともと三重県北勢地方に鉄道を敷設する計画が生まれたのは明治初期で、四日市港築港の功労者であった稲葉三右衛門氏により、1883(明治16)年に鉄道局へ四日市 ~ 関ヶ原間の「勢江鉄道建設申請書」が提出されたのが、現在の三岐線のルーツとなっている。大正時代にも同様の鉄道構想が具体化し、着工寸前までいったものの、関東大震災後の財政悪化等の諸事情により立ち消えとなった。

その後、藤原岳が(セメントの原料となる)石灰岩で組成されていることに着目した浅野セメントと小野田セメントの両セメント会社が、原料と製品の運搬のために鉄道敷設を計画し、それぞれ「藤原鉄道」と「員弁鉄道」の鉄道敷設免許申請を1927(昭和2)年三重県に提出したが、両鉄道とも似通った内容となっていたこともあり、地元四日市の有力者であった伊藤傳七氏らの仲介によって両鉄道構想が一本化され、同年11月に「藤原鉄道」として改めて免許申請が行われ、1928(昭和3)年6月に免許が交付された。

そして、藤原鉄道は同年9月に行われた会社創立総会において「三岐鉄道株式会社」と改称することが決定し、初代社長には伊藤傳七が就任した。

1929(昭和4)年8月27日に起工式を行い、同年9月21日に着工した三岐線の建設工事は、開業1ヶ月前の1931(昭和6)年6月に富田 ~ 東藤原間23.1kmが完成した。

なお、この間に小野田セメント藤原工場の建設も行われているが、工場主要部が完成したのは1932(昭和7)年11月で、セメントの出荷が始まったのは翌年の1933(昭和8)年1月からであった。

ところで、鉄道開通にあたり準備が慌ただしく行われ、駅長・助役就任予定者が約1ヶ月間志摩電鉄(現在の近鉄志摩線)で教習を受ける一方、当時の日本では珍しく女性車掌を6名採用するなど、鉄道営業に必要な職員の養成や、資材・物品の調達等を急ピッチで実施し、7月23日に富田 ~ 東藤原間で旅客輸送を開始した。

東藤原駅前で関係者による開通祝賀式を行ったが、沿線各地でも様々な祝賀行事が行われ、地元の方々とともに開通を喜びあった。また開通当日から5日間を全線の乗車運賃を半額にしたことから、お客様が殺到して大変な騒ぎになったことが記録に残っている。

なお、12月23日には東藤原 ~ 西藤原間が開通し、これにより西藤原までの全線26.5kmが開通した。

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