第2話「開通から戦前まで」

 1931(昭和6)年に地域の大きな期待を背負って開通したものの、同年9月に満州事変が勃発し、我が国が戦時体制に移行しつつある中で、創業期の経営環境は決して明るいものではなかったが、小野田セメント藤原工場が1932(昭和7)年12月1日に竣工し、翌1933(昭和8)年1月から待望のセメント出荷が始まったことから、貨物輸送が飛躍的に増大し、経営が安定するようになった。

 藤原岳の石灰石運搬が鉄道敷設の主目的であった三岐線は、開業時から旅客輸送はガソリンカー、貨物輸送は蒸気機関車により運行する客貨分離方式を貫いていた。しかし、戦時体制の深化とともにガソリンが配給制となり、それも間もなく入手がままならなくなると、輸送体制の維持に困難を極めるようになった。

 ガソリン不足のため、ガソリンカーの代替燃料として木炭やマキを使って走らせたが、それすら入手困難になると、ついには国鉄から蒸気機関車を借り受けて客貨混合の列車を走らせるなどして、苦境をしのいだ。しかし、当時入手することができた石炭には粗悪なものが多く、蒸気が上がらず急勾配でしばしば立往生することもあったという。

 一方で、戦争が一段と激しさを増し、若い鉄道係員も次々と戦地にかりだされる状況の中で、三重県下の鉄道会社・バス会社は戦時交通統制に追い込まれた。国策により事業者間の合併が進められ、この結果、1944(昭和19)年に三重交通㈱が誕生したが、最後までこの戦時統合に反対したのが三岐鉄道であった。

 会社存続の危機に直面した三岐鉄道は、社会にとって重要な資材を運ぶ貨物輸送を担う鉄道会社として、あくまで統合拒否を貫き通した。

 そして、1945(昭和20)年6月から7月にかけての四日市空襲による鉄道施設の被災も免れ、戦時下の苦難の時代を乗り切った。

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