第3話「全線電化と黒四輸送」
終戦直後の三岐鉄道は、国内の他の産業と同様に苦しい状況に見舞われたが、1950(昭和25)年の朝鮮戦争を契機に国内経済が立ち直りを見せるとセメント需要も急増し、小野田セメント藤原工場の増産体制が整備されるのと歩調を合わせて、貨車を大量に増備するなど輸送力を増強し、貨物輸送を大幅に増やしていった。
また1952(昭和27)年11月には、それまで四日市市高砂町にあった本社事務所を、始発駅でもある富田駅前の現在地に移転して営業体制を整えると、同年12月には富田から国鉄四日市駅までの直通乗り入れ運転を開始した。そして、さらなる輸送力の強化を図るため、鉄道全線の電化に踏み切った。
富田~西藤原間で電化工事を実施し、また萱生・丹生川の両変電所を新築するとともに、電気機関車2両(ED451・452号)を新造するなどして、三岐線においても1954(昭和29)3月から電気を動力とする列車運行が始まった。そして、1956(昭和31)年12月には電車4両を導入し、電車の運転もスタートした。
その後も旅客・貨物輸送の増加に伴い、順次電車・電気機関車を増備して輸送の拡充を進めていく中、1959(昭和34)年8月の台風7号と同年9月の伊勢湾台風によって、当時のお金で1千万円を超える被害を受けたものの、黒部川第四ダム及び畑薙ダム建設用セメントの輸送の開始によって、貨物輸送がピークを迎えることとなった。
黒四ダム建設用セメントの大量輸送は、1日最高60両の無蓋貨車にバラ積みされたセメントを、東藤原駅から国鉄大糸線信濃大町駅まで運ぶもので、1963(昭和38)年までの約4年間で41万7千トンものセメントを専用列車で運搬した。