第5話「鉄道の近代化」

 第5話からは再び鉄道部門の歴史を紹介していきたい。

 1952(昭和27)年に国鉄四日市駅までの列車乗り入れも果たした三岐線であるが、国鉄列車本数が多くなかったこともあり、大半の乗客が、国鉄富田駅に到着した後は徒歩で近鉄富田駅へ向かい、近鉄線に乗り換えていた。

 そこで、まず1959(昭和34)年に、国鉄富田駅に到着した旅客列車をスイッチバックさせて近鉄富洲原駅に連絡する「富洲原新線計画」に着手したが、貨物輸送の大幅な増加が見込まれる情勢の中で、国鉄富田駅構内での列車の輻輳(ふくそう)が懸念されるようになったため、やむなくこの新線建設を見合わせた。

 折しも、学校法人「暁学園」が四日市市萱生町の現在地に移転したことから、三岐線「萱生」駅を1965(昭和40)年8月に「暁学園前」駅に改称したが、この学校新設開校によりますます乗降客が増加し、加えて沿線に「八千代台」などの団地開発が進行していたことと相俟って、いっそう近鉄線との接続が求められるようになったことを受けて、近鉄富田連絡新線1.1kmを建設することとなった。

 近鉄富田連絡新線は、三岐朝明駅(現・信号場)から分岐して近鉄富田駅へ乗り入れるもので、1969(昭和44)年8月に着工し、翌1970(昭和45)年6月竣工、同月25日より同線の運輸営業を開始した。なお、これに伴い従来の国鉄富田駅発着の旅客列車は本数を大幅に減らす形での運行となった。

 一方、この時期には鉄道の近代化に向けて様々な施策に取り組んだ。中でも、列車運行方式を近代化するため、1973(昭和48)年10月に保々駅構内にCTCセンターを竣工し、1974(昭和49)年4月から富田~東藤原間でCTC、ARC装置による列車集中制御運行を開始した。

 また線路設備の近代化についても、1977(昭和52)8月より枕木コンクリート(PC枕木)化工事に着手し、1982(昭和57)7月に富田~東藤原間の枕木コンクリート化が完成した。さらに、道床つき固め作業車であるマルチプルタイタンパー車を1980(昭和55)年12月に購入し、軌道保守作業の近代化も進んだ。

トップへ戻る